序章 木漏れ日のさす庭で


「その花の名前、なんて言うか知ってるかい?」
 その声が頭の上から降ってきた時、ジャスティンは、しまった、と思った。

 時刻は昼過ぎ。暖かな春の日差しが降り注ぐ午後。吹き抜ける風は気持ちよかったが、今朝まで続いた長雨のせいか、どこか湿って重たかった。
 城の奥の一角。そこに隠されるようにして作られた庭園を見つけたのが、この状況になっているきっかけ。カルセドニア城は広い。小さな町など比較にならない面積を誇るこの城は、その広さ故にいろいろな物が隠れている。仕事を抜け出し、ぶらぶらと歩き、そんな城に隠された物を探して歩くのが、ここ最近のジャスティンの趣味だった。
 ジャスティンは、今年で15歳。カルセドニア帝国では20になると成人と認められるから、まだまだ立場は子供だ。しかし、その恰好を見ればたいていの者は彼がただの子供でないと知るだろう。
 きめ細かく織り上げられた上質の黒リネンの衣服に、同じ色のローブ。それも、魔導士が身につける丈の長いローブだ。そして、そのローブの留め具には、竜と杖をあしらった紋章が付けられている。彼が、帝国でも最高の魔導士の集団、宮廷魔導団に属する魔導士である証だ。
 そして、それ以上に目を引くのが、彼の瞳だ。藍色の瞳はまだ幼さの残る少年の顔に似合わず、驚くほど深い色合いをしていた――そして、その瞳が、小柄と言ってもよい彼の体を何倍にも大きく見せていた。
 彼の趣味である小冒険は、老執事が仕事の合間に育てている小さな菜園から、あきらかに拷問部屋としか思えない小部屋まで、実にいろいろな物を見つけていた。そんな城の奥深さの一端を知り始めていた彼にとって、この庭園は最初、珍しい物には見えなかった。
 ただ、その入り口が簡単な結界で隠されていたことが彼の興味を引いた。結界の術式に侵入し、解錠呪文を盗み出して結界を解くのは、彼にとってさほど難しい作業ではない。

 結界を解除し、下草の薄くなった道と思しき場所を歩いて庭園へと踏み込んだ彼は、正直言えば少し落胆した。
 そこは、どこにでもあるような小さな庭園だった。植えられている花々や持ち込まれている調度品に手入れが行き届いていることから、この庭園に定期的に人が訪れていることは明確で、その事が彼の落胆に一役買っていた。誰も踏み込まない、本当に秘密の場所こそ、彼が求めている物なのだから。
 けれど、その場所にとどまり、昼寝でもしていこうかと思ったのは、その庭園の雰囲気が良かったからだろう。植えられている花は見事に咲き誇り、落ち着いた木の――たぶん、バルディア樹海のエルフ達から仕入れたラピス材だ――椅子や机がそっと置かれていた。頭上には大きな木が枝葉を伸ばし、穏やかな木漏れ日が降り注ぐ。ゆっくりと時間が流れているような雰囲気は、彼の好みに合っていた。
 この庭園の主は誰だろうか? 手頃な木陰にごろりと横になると、ジャスティンは目を閉じた。まさか、皇帝陛下の庭園ではあるまい。
 現在の皇帝ヴォード=カルセドニアは武勇で鳴らした剛胆な人物だ。華美な装飾を好まない――というより、「装飾用の剣など飾ってもつまらん! もっと使い込まれた実戦の剣を飾りたい!」などと言って、メイド達の反対を振り切って客間に血糊のついた剣を飾ろうとするような人物だ。こういう雰囲気の庭園を造るぐらいなら、練兵場でも造っているだろう。
 女性だろうか? その可能性は高いと思う。どこかの地位のある貴族の想い人か、城の一角にこのような庭園をしつらえてもらえるのだから、それなりに愛されている女性だろう。
(じゃあ、あのクソババアって事だけは無いな)
 脳裏にけばけばしい女の顔が浮かび、ジャスティンは顔をしかめた。
 第一王妃メリッサ。成金趣味で高慢ちきな、もうすぐ40を超えようという女だ。政略結婚によって第一王妃の地位に収まってはいるが、良い評判は聞かない。皇帝陛下も、彼女よりもリリーという女性を大事にしているという。もっとも、リリーは何年も前に心を壊し、今では城の一室に閉じこもっていると言うが。

 風が吹き抜け、ジャスティンの思考を遮った。目を開けると、雨上がりの空には、まだちぎれたような雲がいくつも浮かんでいる。その空を見上げ……大きなあくびを一つすると、彼は再び目を閉じた。
 結界に隠された庭園。持ち主は分からずとも、その人物のプライベートな空間であることは確実なその庭園に勝手に入り込んだままでいるのは、ちょっとどうかとも思ったが、どうせ持ち主に遭遇することなど無いだろう。そうタカをくくっていた。

 そうして、ウトウトし始めたところに、声が降ってきたのだ。

「あれ? もしかして、寝てるのかな?」
 ちょっと困ったような、少年の声。おそらく、この庭園の持ち主の。
 どうしたものかと思考を巡らせ、狸寝入りで誤魔化すことまで考えて……結局、ジャスティンは目を開けた。彼が目を開けるのを見て、目の前の人物――ジャスティンと変わらない年頃の少年が笑った。
「やぁ、ごめん。起こしちゃったかな?」
 にこやかに笑う少年だった。すっと整った顔立ちに、淡いブルーの髪。伸ばした前髪で片目を隠しているが、それが邪魔な風には見えない。むしろ、少年のさわやかな雰囲気に良く合っていた。
 少年の衣服に目を走らせ、ジャスティンはもう一度、しまった、と思った。少年が身につけている黒地に金糸をあしらった衣服は一目で高価な物だと分かったし、なにより大きく立った襟が少年自身の身分を表していた。
 カルセドニアでは、昔からやんごとなき身分の人物は大きく襟の立った衣服を着る。
 その由来は建国史までさかのぼり、元をたどれば初代皇帝である統一帝エルヴィンが出兵の際に身にまとったマントの形に由来しているのだという。だから、皇帝や貴族の当主達は公式の場では常に襟の立った衣服を身につけ、特に戦の際には襟の立ったマントを身につける。もっとも、そんな事には大して興味のないジャスティンは「偉い奴は襟の立った奴」ぐらいの意識しか無いのだが。
 襟の形や大きさに決まりが無いのも特徴だ。一目でどれぐらい偉いのか判断がつかないのは――これまたカルセドニアという国が、元は二つだった国が一つになって生まれたという建国の歴史に由来するのだが――爵位だけでは計りきれない複雑な貴族達の地位関係にあるためだと言われている。
(これがバルディアなら、すぐに分かるんだけどな)
 隣国であり敵対国でもあるバルディア連合王国なら、身分によって異なる飾り布を身につけるため、一目で立場が分かるのだ。

 相手の身分がはかれないために、どう対応したら良いか考えあぐねるジャスティンに対して、少年はニコニコとした表情を崩さない。
 眉を吊り上げて怒鳴られでもすれば対応のしようもあるが、庭園の主である少年に不法侵入と昼寝の現場を押さえられ、こんな表情をされては、さすがのジャスティンも困ってしまった。
 ジャスティンはしばらく少年の顔を見つめていたが、結局、最初の問いに答えることにした。

「クレマチス」

 ぼそりとしたジャスティンの答えに、少年の目が喜びに染まる。
 寝っ転がったまま頭上を見上げると、そこには木の柵に絡まるようにして生えるツル性の植物が葉を茂らせている。そして、そのツルの先にある、淡い紫をした、広げた手のひらぐらいの大輪の花がいくつも。これが、先ほど少年が言っていた「その花」だろう。
「詳しいね! その花、僕の一番のお気に入りなんだよ」
 声を弾ませ、少年が続ける。
「花言葉は知ってる? “高潔”に“心の美しさ”、それから……」
「“旅人の喜び”だろ」
 答えに、少年が楽しそうに笑った。
 なんとなく花言葉が好きだから覚えていた、という程度だったが、楽しそうに笑う少年を見て、ジャスティンも悪い気はしなかった。もっとも、後にこの花言葉が似合う少女と共に革命の旅に出ることなど、当時の彼には知るよしもない。

「結界が無くなってるから、誰が入ったんだろうと思ってたけど、良さそうな人で良かったよ!」
 無邪気に笑う少年を見やり、ジャスティンは身を起こした。花言葉を知ってるだけで良い奴なのか、と聞くと、花が好きな人に悪い人はいない、という答えが返ってきた。
 少年は、よっ、と声をかけて立ち上がると、座り込んだジャスティンの隣にやってきて、並んで座り込んだ。上等な服が汚れるぞ、と言うと、汚れるのを嫌がってたら庭いじりなんて出来ないよ、と答えられた。

 それから二人は、いろんなことを話した。
 もっぱら少年がしゃべり、ジャスティンがぼそぼそと答えるだけだったが、同年代の人間と声を交わす機会に恵まれなかったジャスティンにとっては、それでも十分に多くの会話だった。

「宮廷魔導師なんだね」
 少年がジャスティンのマントの留め具に付いた、杖と竜を組み合わせた紋章を見る。
「その年ですごいね。優秀なんだ?」
「……別に」
 それ以上言うことは無いと思ったが、少年の雰囲気がそうさせたのだろうか。
「魔法は好きじゃない」
 ジャスティンは続けた。
「宮廷魔導師だって、なりたくてなったわけじゃない。親父が、やれってうるさいから……」
「お父さんに言われたから?」
「そうだよ。うちは、レスティナ……魔法都市でも名門だとか言う魔導師の家でさ。周りの奴らは、みんな魔導師ばっかりさ。親父もそうで、だから、息子の俺も魔導師にしたいんだと」
 吐き捨て、少年を横目に見る。笑っているかと思ったが、予想に反して少年はまじめな面差しで、ジャスティンを見つめていた。
「魔導師の子供に生まれたから、魔導師にならなきゃいけないんだ?」
「そうだよ」
「一緒だね」
「誰と?」
「僕と」

 振り向いたジャスティンに、少年はちょっと笑って見せた。どこか自嘲の笑みだと、ジャスティンは思った。
 少年は立ち上がる。そして、ポケットから布のような物を取り出すと、慣れた手つきで額に巻いた。
(帯冠(たいかん)……?)
 王族が身につける、略式の王冠だ。バンダナのように頭に巻き付けることから、この名がある。
 驚くジャスティンを見下ろして、少年は笑った。寂しそうな笑みだった。

「まだ、名乗ってなかったね。僕はレオン。レオン=カルセドニア」

 それは、カルセドニア帝国の皇太子の名。

「楽しかったよ。……さようなら」

 それ以上何も言わず、くるりと音がしそうな勢いで振り向くと、少年――レオンは、そのまま歩み始めた。その背に、どこか諦観にも似た、寂しそうな拒絶の気配があるのをジャスティンは感じた。
 その刹那、ジャスティンの中には自分でも感じたことのない、激しい感情が渦巻いた。それは渦をまくうちに次第に一カ所に集まり、やがて明確な像を結んだ。

 それは、少年を立ち去らせようとする“生まれ”という壁に対する、怒りだった。

「待てよ!」

 互いに身分の分からなかった先ほどまでならいざ知らず、一度皇太子であることが分かった少年にかけるには、あまりに乱暴な言葉。けれど、ジャスティンは我知らず立ち上がり、驚き、振り向く少年に駆け寄ると、その腕をつかんでいた。
「俺はそんな奴じゃねぇ!」
 自分でも何が言いたいのか分からぬまま、言葉をつなげる。
「皇太子だから、なんだよ! そんなの関係ねぇだろ! さっきまで、あんなに話してたんだから――!」
 驚きに目を見張るレオンは、やがてジャスティンの言葉が染み込むにつれ、泣き笑いの顔へと変わっていった。
「友達……って事で、いいのかな?」
 言葉に、ジャスティンは頷いた。何度も、何度も。

 やがて二人は、どちらからともなく手を伸ばし、握手を交わした。いつの間にか、雲一つ無くなった空の下、小さな庭園の中で、この日、二人は友人になった。


  

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