6 帰還と別れ


 出立の時とはうって変わって、城へと帰還したジャスティンは盛大に迎えられた。事前に、蛮族の魔導師を打ち倒した事を手紙で伝えておいたおかげだろうが、それでも、そのあまりの温度差に、ジャスティンはうんざりした気持ちを抑え切れなかった。
 鉱山都市で律儀にジャスティンの帰りを待っていた従者の老人と共に城門をくぐると、いっせいにファルが吹き鳴らされ、ずらりと居並んだ騎士達が剣を掲げて最敬礼した。
「お前さん、こんなに偉い魔導師さんだったのかい」
 老人が驚いた顔で言ったが、ジャスティンは苦笑を返しただけだった。
 馬を降り、後を老人に託すと、ジャスティンは騎士達の間を進んだ。〈中の宮〉の入り口の前には、団長イーサ=ムントを始め、帝国の重鎮たちが勢ぞろいしていた。
 その中に、レオンの姿が無いことにジャスティンは気がついた。
 ジャスティンが進み出て、片膝をついて臣下の礼をとると、重鎮達が一斉に口を開く。
「勇者よ。よくぞ、大役を果たしてくれた」
 と、左大臣を努める老人が重々しく言えば、
「さすがは宮廷魔導団の英才。必ずや、かの仇敵を討ち果たしてくれると信じていました」
 と、農水執政官の女が微笑んだ。
 幾度も続くそれらの言葉を聞き流し、ジャスティンは不意に顔を上げると、言った。
「いと高き方々。数々のお言葉、身に余るほどの光栄です。
 ……しかし、私は何よりもまず、陛下に忠誠を誓う身。陛下より賜りし命を成し遂げました事、陛下にご報告いたしたく存じます」
 予想通り、貴族たちは一瞬黙り込むと、互いにすばやく目配せをした。イーサ=ムントが口を開く。
「ジャスティン=ラグナー。そなたの気持ち、同じ陛下に忠誠を誓う者として良く分かる。
 だが、陛下は多忙であられる。いずれ目通りが叶う事もあろうが、今すぐというのは難しい。まずは、わが宮廷魔導団から陛下に申し上げておくゆえ、今はゆるりと体を休めるが良い」
 ジャスティンはイーサの目をじっと見つめ、やがて頭をたれた。

 宮廷魔導団は、ジャスティンの行いを宮廷魔導団の手柄として内外に喧伝した。イーサを始め、宮廷魔導師たちは肩で風をうならせ、我が物顔で城内を歩き回った。貴族たちがひっきりなしに宮廷魔導団への援助をしたいと申し出てくるために、宮廷魔導団に与えられた応接室は常に誰かが使っていた。
 だが、それら全てがジャスティンにとってどうでもいい事だった。ジャスティンにとっては、いまだ顔を見る事すらできない親友の事が何よりの心配事だった。
「焦っても、仕方ないと思いますよ」
 書庫にやってきては内心の心配を語るジャスティンに、ロウェンはそう言った。
「それに、ジャスティン君が無事に帰ってきた事は、イーサ団長が陛下に伝えているでしょう。そうでなくても、これだけ宮廷魔導団の株が一度に上がったんです」
 ロウェンは気遣わしげに微笑んだ。
「誰も伝えていなくても、きっとジャスティン君が無事に帰ってきた事は分かっていますよ」
 そうだとは思う。誰も伝えずとも、峰雪が必ず伝えるだろう。その心配はしていなかった。だが、ジャスティンは出立前に見た、レオンの暗い表情が気になって仕方なかった。
 それに、ジャスティンは旅の途中で聞いた、レオンに対する批判の声も気になっていた。
 新王が即位してから、ちゃんと政治が行われていない気がする……といった声に始まり、皇帝はまだ若いために貴族をまとめ切れていないのだ、期待していたのに何も変わらない、皇帝は理想を語るばかりで現実には何もしない――そんな、レオンを無能と呼び、非難する声が、ジャスティンの想像していた以上に国内には満ちていた。
 もちろん、レオンを評価する声もあった。〈神聖皇帝〉を名乗った事を評価し、それゆえに貴族たちと上手く言っていないのだろうと、彼を弁護する声も確かにあった。だが、それらの声は、批判の声に比べれば決して大きなものではなかった。
 レオンは無能ではない。努力だってしている。だが、周囲の妨害のせいでそれが実らないのだ。ジャスティンは一度ならず、だれかれ構わず捕まえて、そう言って回りたい衝動に駆られた。

 一週間後、ようやくジャスティンは皇帝への目通りを許された。ローブをまとい、正装をして、ジャスティンは長い階段を上り、玉座の間へと足を踏み入れた。
 ファルの音が響く。臣下の礼をとったジャスティンの前へ、レオンが姿を現した。
「面を上げよ」
 声に顔を上げた。なんとなく予想はしていたが、レオンの顔は、出立前と比べてさらにひどく、やつれてしまっていた。
 ジャスティンは頭をたれ、短く、蛮族の魔導師を倒す事ができたこと、また、彼の用いていた未知なる力は、その魔導師個人が生み出していたもので、魔導師が死んだ今、もはや帝国を脅かす心配は無いことを告げた。
 ジャスティンは、〈迎撃魔法〉を生み出していた杖の事を一切喋らず、魔導師が自ら使っていたものだと言い続けていた。杖のことを話せば、貴族たちは大軍を送ってでも杖の行方を調べようとするだろう。ジャスティンにはそれが分かっていた。
 話を聞き、レオンが頷いた。
「ご苦労だった。その働きにふさわしい褒美を与えよう。望みはあるか?」
 レオンの声に、ジャスティンは顔を上げた。
「……いいえ」
 ジャスティンは、静かに言った。
「陛下のお役に立てることこそ、私にとって何よりの喜び。陛下のために働けましたなら、それが私にとって最高の褒美です」
 言葉に、レオンが弱々しく微笑んだ。それがかえって、ジャスティンの目には痛々しく映った。
「ありがとう、ジャスティン」
 レオンの口から響いた皇帝らしからぬその言葉に、居並ぶ貴族たちが眉をひそめるのが見えた。だが、ジャスティンはその言葉と笑顔に、胸の奥から熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
 ジャスティンの知るレオンがそこにいる。その事を感じ、ジャスティンは体を折り、深々と礼をした。レオンの笑みが、まぶたの裏に焼きついた。

 この後何年も、ジャスティンがレオンの笑顔を見る事は無い。

 *

 そして、その日が訪れた。
 ジャスティンはその日のことを、今でも昨日のことのように思い出す。

 ジャスティンがレオンと最後に会って、一月ほど経った頃の事だった。
 宮廷魔導団に与えられた部屋の一つで、ジャスティンは新しい魔法に関する論文を読んでいた。そんな彼の元へ、一人の来客者が訪れたのだ。
「ジャスティン=ラグナー。陛下が、あなたをお呼びよ」
 そう言ったのは、農水執政官を務める女貴族だった。すらりとした長身の彼女は、切れ長の瞳を細め、艶然とジャスティンに微笑んだ。
 彼女はジャスティンを伴って、〈中の宮〉へと向かって歩き出した。優雅に、けれど足早に歩を運んでいた彼女は、〈中の宮〉へ通じる渡り廊下へ来た時に、ふと足を止めた。
「見て。綺麗な夕日ね」
 いぶかしがりながら後をついていたジャスティンは、女の視線を追い、窓の外へ目を向けた。
 女の言葉通り、それは見事な夕焼けだった。だが、それは美しい眺めだったが、血の色を連想させる、不気味な赤さでもあった。女もそう思ったのだろう。
「まるで、血のようね」
 ぽつりとつぶやいた女が、続けた。
「血の落日……まるで、今の帝国ね」
 窓から目を戻したジャスティンに、女は横目で笑いかけた。
「貴族たちは、若い皇帝を追い詰めて傀儡にしようとする。皇帝は耐えかねて、今まさに貴族たちの操り人形になろうとしている」
 ジャスティンは、女をにらみつけた。
「凋落する皇帝の血。骨抜きになった皇帝を尻目に、帝国は貴族たちのもの。
 ……でも、その貴族たちもまた、血によって貴族たるもの」
 女は夕日へと目を戻し、ため息をついた。
「私利私欲に走り、帝国という大樹を食いつぶす寄生虫。私達もまた、あの夕日のように地平の下に没しようとしているのかもね」
 その後に残るのは、長い長い夜かしら……女は独り言のように言った。
「……何が言いたい」
 力をはらんだ声で言うと、女は正面から、ジャスティンのほうへ向き直った。
「それは陛下から聞きなさい。……私は、陛下のためにあなたを呼びに行っただけ。
 私はね。あのレオン陛下が嫌いではないのよ。ただ、〈神聖皇帝〉を名乗る愚直さが、皇帝に向かないと思っているだけ」
 ジャスティンが口を開きかけるのを、女は手で制した。
「私は、そこさえ何とかなればいいと、そう思ってる。でも、そう思わない者も少なくないのよ?
 ……そう、たとえばレオン陛下を退位させて、自分達の中から皇帝を選ぼうと考える貴族だっているの。
 そうして、レオン陛下が行き着く先が分かる? 自ら王冠を脱いだ皇帝に先は無い。待っているのは、病死か事故死だけ。私は、陛下をそういう目に遭わせたくない。〈暗黒皇帝〉となってでも、皇帝でい続けて欲しいと思うわ。彼の理想……それは理解できるから」
 女は笑った。けれどそれは、艶然とした笑いではなく、寂しげな微笑みだった。その時初めて、ジャスティンは女がずっと、寂しげな表情を浮かべていた事に気がついた。
「……なら、どうしてレオンを守らない?」
 静かな問いかけに、女の寂しげな笑みが濃くなった。
「それはね。私もまた、カルセドニアの貴族だからよ。
 私もまた、帝国の貴族たる道から外れれば……待っているのは、病死か事故死なの」
 女は振り向き、窓の外を見た。夕日は、すでに城の高い塀の向こうへ消えようとしていた。
「この国は、終わっているの。もうとっくの昔にね。誰かが変えなくちゃいけない。
 ……レオン陛下は、それができる器だった。もう少し、帝国の情勢が彼のほうを向いてくれていれば……もしかしたら、彼は帝国を変えられたかもしれないのに」
「まだ遅くない」
 ジャスティンの言葉に、けれど女は振り向かなかった。
「……それは、自分の目で確かめてくるといいわ」
 女が歩き出す。ジャスティンは後を追いかけた。
 大広間を抜け、玉座の間へと続く階段の下に着くと、女は振り向き、ドレスの裾を軽くつまんで頭をたれ、貴族の女性が行う最上級の礼をジャスティンにした。
「ここから先へは、あなた一人で。
 ……レオンと仲良くしてくれて、ありがとう」
 微笑み、立ち去る女の背に、ジャスティンは声をかけた。
「あなたは、何者だ」
 足を止め、振り返ると、女は初めて、裏表の無い素直な笑みをジャスティンに向けた。
「ジュスティナ=フォン=レマクラスト侯爵。
 ……姉の名は、リリーというの」
 その名に、ジャスティンは胸を突かれるような気がした。ヴォード前皇帝の側室、レオンの母の名が、リリーではなかったか。
 だが、それを確かめる前に、ジュスティナは背を向け、立ち去ってしまった。
 ジャスティンはしばしその行方を目で追っていたが、やがて意を決すると、玉座の間へ続く階段を上り始めた。

 長い階段を、ジャスティンは上る。
 足元には毛足の長い深紅の絨毯が敷き詰められ、両側の壁には細かな彫刻がされた純金製の燭台が等間隔に並んでいる。大陸の反対側の国から海を渡って届けられたろうそくが、その上で小さく燃え、ジャスティンの歩みがその炎を揺らすたびに、甘い香りをふわりとふりまいた。
 ジャスティンは、昔の頃に戻ったような気になった。あの日、セバスからヴォードが倒れたと知らせを受け、峰雪と2人でレオンの帰りを待った。そうして、レオンに連れられて、この階段を上って玉座の間へ向かったのだ。
 あの時三人で上った階段を、今、自分は一人で上っている。
 あの時の、国を変えるのだという気持ちがよみがえり、ジャスティンは足を止めた。
 急に、この階段を上りきった先にあるものが怖くなった。きっとこの先ではレオンが待っている。そして、たぶん峰雪も。あの時のように三人で揃って、そして、何を話すのだろう? 国を変えるのだと、希望と使命感に燃えたあの場所で、今度はいったい何を話すのだろう?
 膝が、がくがくと震える。振り返って、走って逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
 ジャスティンは膝に手をつき、うつむくと荒く息をついた。弱気になる心を叱咤し、身を起こして再び階段を上り始める。
 この先で、レオンが待っている。自分の、ただ一人といっていい、親友が待っているのだ。必死に心の中で繰り返して、ジャスティンは一歩一歩、階段を踏みしめた。
 行く手に、大きな扉が見えてきた。玉座の間の入り口となるそこには、本来いるはずの衛兵の姿は無く、それがまた、ジャスティンにあの頃の誓いを思い出させた。

 ――僕は、〈神聖皇帝〉を名乗ろうと思う。

 扉の前にたどり着き、ジャスティンは扉に手を突いた。扉に寄りかかるように力をこめると、扉はゆっくりと、内側に向かって開いた。

 ――僕は、この国を変えたい。

 がらんとした玉座の間に、二人の人影があった。
 一人は青年。襟の立ったマントに、黒地に金糸をあしらった衣服を着た青年。
 一人は女性。宮廷魔導団の緋色のローブをまとった、長い黒髪の娘。
 青年は入り口に立つジャスティンに背を向け、玉座を見上げて立っていた。
 娘はその隣で、嗚咽に肩を震わせ、その両目から、ぽろぽろと、とめどなく涙を流していた。

 ――僕は――誰もが、自由に、平等に――幸せに暮らせる国を作りたい。

 娘がジャスティンに気づき、青年もまた、気づいた。
 歩み寄るジャスティンに、青年が振り向いた。誰よりも親しい友人の顔は、ジャスティンの知らない別の誰かとしか思えないほどに、暗い表情に彩られていた。
 やめてくれ。
 心が悲鳴を上げる。聞きたくない、頼む、言わないでくれ。
「ジャスティン」
 レオンが、口を開く。

「僕は〈暗黒皇帝〉になる」

 ぎしっと、心がきしんだ。

「……今、なんて言ったんだよ」
 声が聞こえる。誰の声かと考えて、一拍遅れて、自分の声だと気がついた。
「なんて言ったんだよ、レオン!」
 まるで現実感の無いままに、ジャスティンは声を放つ。足元が、ぐらりと沈み込むような気がした。
「……僕は、〈暗黒皇帝〉になる。そう言ったんだ」
「……なんでだよ……なんで、そんな事言うんだよ……」
 ジャスティンは、レオンへと駆け寄り、その肩をつかんだ。どきりとするほどに、その肩は肉が落ち、細くなっていた。
 だが、ジャスティンは、もはや自分を止めることはできなかった。
「――3人で、この国を良くしていくんだって、言ったじゃないか!」
 声に、レオンがうつむいたまま暗い瞳を上げ、ジャスティンを見た。
「……もうイヤなんだ」
 レオンとは思えない声が、レオンの声で言葉をつむぐ。
「どんなに頑張っても上手くいかない……いいや、上手くいかないだけなら、別に構わないさ……
 でも……貴族たちは、僕の言う事に耳を貸さないし、官僚達ですら、僕の言う事を聞かない……」
 きっ、とレオンが顔を上げた。
「命令を下しても伝わらないし、僕の考えた法律は議論にすら上らない……
 それで、何をしろって言うんだッ!」
 レオンの瞳が、涙に揺れた。そう思った時には、レオンの顔がにじみ、ぼやけていた。
 ジャスティンは、自分の瞳から涙がこぼれるのを感じた。
「それでも――!」
 必死に、レオンの肩をゆする。
「それでも、やるって言ったじゃないか! 〈神聖皇帝〉を名乗る時に、そんな事は覚悟しただろ!?」
 はっ、と嘲るように息を吐いて、レオンの口元がゆがんだ。口で笑って、瞳で泣いて、レオンは搾り出すように言った。
「……国中で、僕がどう言われてるか、知ってるんだろ……?」
 言葉に、ジャスティンがひるんだ。聞いてきた数々の批判が、脳裏にこだました。それを無理矢理振り払って、必死に言葉を搾り出す。
 ここで答えなければ、レオンは決して戻ってこない。
「――そりゃ、批判もある……
 けど、ちゃんと評価してくれる奴だって、たしかに――」
「……貴族もまとめられない、愚王」
 レオンが、ジャスティンをさえぎった。
「若さと理想だけで突っ走る、現実の見えてない青二才……」
 レオンの顔がゆがむ。
「綺麗事ばかり並べて、国のために何もしないお坊ちゃま……!」
「レオン――!」
 声を上げかけたジャスティンの襟首を、レオンがつかむ。細くなった手首が、視界に映る。
「分かるのかよ!? ――お前に、分かるのかよッ!」
 レオンが、かすれた声を上げる。手に力なく力がこめられる。決して強くないその手を、ジャスティンは振り払えなかった。
「僕はこんなに頑張ってるのに! 誰も僕を見てくれない! 認めてくれない!!」
 レオンが、叫んだ。
「そんな国のために頑張るなんて――
 もうイヤなんだよッ!!」
「――馬鹿野郎ッ!」
 何を考えたわけでもない。
 気づいた時には、ジャスティンはこぶしを振り上げ、レオンの頬を殴っていた。
 レオンの細い体が玉座の間の床に転がり、峰雪がジャスティンの名を叫んだ。
 頭の中が真っ白になり、こめかみが、どくっ、どくっと脈打つのが感じられた。胸の中を訳の分からない衝動が駆け巡り、吐きそうになった。
「馬鹿野郎……!」
 それだけ絞りだし、ジャスティンは駆け出した。玉座の間の扉を抜け、転げるように階段を駆け下りる。後ろで峰雪が何か叫ぶのが聞こえたが、ジャスティンは振り向かなかった。
 どこをどう走ったのか分からない。気づけば、レオンと初めて出会った、あの庭園にいた。庭の真ん中まで駆けて、ジャスティンは倒れこむように突っ伏した。
 レオンの決意が悔しかった。
 レオンを追い詰めた貴族たちが憎かった。
 何も出来なかった自分が、何よりも腹立たしかった。
 無数の感情が胸の内でせめぎあい、ジャスティンは嗚咽した。
 搾り出すような泣き叫ぶ声が、聞くもののいない闇の中に吸い込まれた。

 *

 それから語ることはあまり無い。
 レオンが〈暗黒皇帝〉を名乗る事が正式に発表された事も、前皇帝ヴォードの病没が伝えられた事も、バルディアとの停戦が実現した事も――ジャスティンの心を揺らす事は無かった。
 〈暗黒皇帝〉となったレオンは、貴族からの執拗な妨害から解放されたらしいが、同時に、彼らの要求を呑んで、いくつもの法律を成立させた。それは、皇帝の権限の一部を貴族に移譲したり、あるいは貴族たちの同意なしには使えなくしたりする法律だった。
 レオンは骨抜きにされた。
 貴族たちは傀儡となった皇帝を担ぎ上げ、我が物顔で国を動かすようになった。

 それらの事を知っても、ジャスティンの心には何も浮かばなかった。
 ジャスティンは呆然と、抜け殻になったように日々を過ごした。

 何事も無ければ、時の流れがジャスティンを癒し、彼を穏やかな日々へと送り返していただろう。だが、この世界を創り出した〈神剣〉は、すでに彼を別の運命へと誘うべく、新しい詩をつむぎ始めていた。

 *
 
 その日、ジャスティンは城の自室にいた。
 何をするともなしにぼんやりと窓の外を眺めながら、ジャスティンの心には一つの迷いだけが、ぐるぐると巡っていた。
 レオンが突然、国中に向けて重大な発表がある、そして、その場には民衆も集まり、自分の言葉を聞いても良いと触れを出したのだ。無論、異例のことだ。さらに、公爵位を持つ貴族やメリッサ第一皇母が呼ばれている事も様々な憶測を呼んでいた。皇帝が退位を宣言するのだという声すら、公然と聞こえていた。
 今日がその日だ。ジャスティンは、ずっと、その場に行くかどうかを悩み続けていた。
 レオンと喧嘩別れして以来、ジャスティンは彼と顔を合わせるのをためらっていた。どのような顔をして会いに行けばよいのか、分からなかった。なんと声をかければいいのか、何も思い浮かばなかった。
 行くべきか、行かざるべきか、ジャスティンは悩み続けていた。日頃、即断即決する方であると自分で思っていただけに、こんなにも思い悩む自分が、ジャスティンには少し意外だった。それだけ、レオンという存在はジャスティンの中で大きな物になっていたのだ。

 迷った末、ジャスティンは杖を手にして立ち上がった。
 遠くからでいい。親友の姿を、もう一度だけでいいから見たい。見守りたい。
 その一心で、ジャスティンはローブを羽織ると部屋を後にした。

 それが、彼の運命を変えた。

 *

 峰雪は、ワクワクする気持ちを抑えきれずに、時に思わずスキップをして赤くなったりしながら、町で買い物をしていた。
手に提げたかごの中には、幾種類もの種や苗が入っている。
 彼女がレオンから買い物を頼まれたのは、その日の朝だった。妙な胸騒ぎが止まらなかった彼女は、今日の発表の場へ一緒に連れて行ってもらおうと、そうでなければ、せめて一緒にいられる間は一緒にいさせてもらおうと考えて、レオンの部屋を訪れたのだ。
 ノックし、部屋へ入った彼女は、レオンから数枚の銀貨とメモを渡された。メモには、たくさんの花の種や苗の名前が書かれていた。
 峰雪は、目頭が熱くなった。彼がまだ皇子だった頃、城から出られない彼に代わって、自分やジャスティンが買い物へ出かけたものだ。そうして、あの庭へ行って、3人で花壇を作っては、季節ごとの花を植え、世話したのだ。
 峰雪は弾んだ声で、今日の発表が終わったら時間があるか、と聞いた。レオンは頷いた。
 彼女は嬉しさでいっぱいになり、大急ぎで町へと向かった。喜びに満ちた彼女の胸に不安が入り込む余地は無く……
 だから彼女は、レオンの瞳に宿っていた、暗い決意の光に気づくことはできなかった。

 *

 城の前の広場は、すさまじい数の人でいっぱいだった。帝都の住民はもとより、地方都市から出てきた者も多く、その誰もが、眼前にしつらえられた壇上でこれからされる皇帝の発表を聞こうと押し合いへし合いしていた。
 ジャスティンは人々の間に入るのを諦め、広場に面する建物の壁に寄りかかった。そこはジャスティンも何度か訪れた事のある洒落たカフェで、外に面する硝子の向こうにも、広場の様子を見ようと人だかりが出来ているのが見えた。
 壇まではずいぶんと距離があったが、今の自分にはこれぐらいの距離がちょうどいいだろうと、ジャスティンは思った。
 ファルの音が響き、群衆が静まり返る中、前皇帝ヴォードの后、第一皇母メリッサを先頭に、公爵達が壇上へ上がってきた。その後に、公爵たちの夫人や子供たちが続き、幾人もの貴族達が続く。
 普段は貴族達を雲上人と呼び、見ることすら叶わない民衆達は、そのそうそうたる顔ぶれに、これから起きる事の重要性を改めて感じ、歓声を上げた。
 貴族達は壇上の席へと導かれ、座ると、内心の興奮を押さえきれない顔で民衆を見下ろした。
 彼らの胸中には、皇帝レオン=カルセドニアが自ら退位を宣言する姿と、公爵である自分達の中の誰かが次の皇帝に選ばれる姿が浮かんでいた。それを思い浮かべながら、彼らは自分が皇帝の地位に就くために誰を蹴落とせばよいか、誰を味方につけるべきか、あるいは、誰を皇帝にするのが自分にとって最も益になるか、ひたすらに考えていた。
 民衆を見下ろしながら、彼らは横目で互いの様子を探り合っていた。
 だから、自分達の座る位置が一箇所に固められている事にも、この場に公爵の位――帝位継承権を持つ人間が子供まで含めて揃っている事にも、他の貴族達が全員、皇帝に反対していた派閥の者だという事にも、気づくことは無かった。

 *

 その兵士の一団――発表の場に列席する公爵達の護衛を命じられていた兵士達は、自分達の眼前に突然、別の兵士の一団が立ちふさがったせいで、足を止めた。
 立ちふさがった兵士達は、胸につけた紋章から皇帝直属の親衛隊であることが分かった。
 護衛へ向かう兵士達の先頭にいた壮年の兵士――隊長が一歩進み出て、道を開けるよう言った。しかし、親衛隊の兵士は首を横に振り、発表の場に武器を持ち込むことは許さない、と繰り返すばかりだった。
 業を煮やした隊長が親衛隊を押しのけて通ろうと手を伸ばしかけた瞬間、隊長は自分の喉に、銀色の光が突き立つのを感じた。驚愕に目を見開くと、いつの間に抜いたのか、親衛隊の一人が剣を手にしていた。そしてその剣は、まっすぐに、隊長の喉に突き立っていた。
 剣が抜かれ、一拍おいて鮮血が噴出した。のけぞって倒れる隊長の姿に兵士達が凍りついた次の瞬間、親衛隊の兵士達がいっせいに抜刀し、兵士達に斬りかかった。

 *

 ファルが吹き鳴らされる。
 皇帝レオン=カルセドニアはゆっくりと階段を上り、壇上へと上がった。
 民衆がいっせいに歓声を上げた。
 貴族達が、ニヤついた目でレオンを見た。
 レオンは一度目を閉じ、大きく息を吸った。想像以上に寒々とした気持ちで、レオンは自分がその場にいる事を思った。唯一つ、胸の奥底に焼け付くような感情が眠っていた。

 さみしさ、だった。

 一瞬、もはや会うことの叶わない友の姿を壇上と、そして人々の間に探しかけ、やめた。今日、この場で自分がする事を知れば、彼はどう思うだろうか……
 レオンは足を進め、壇上の前方へ――貴族達から離れ、民衆の方へ歩み寄った。人々の目が自分に注がれるのを感じた。そして、くるりと振り向くと、座る貴族達と、憎み続けていた義母である第一皇母へ目を向け――
 そして、言った。

「かかれ!」

 *

 全ては一瞬だった。
 広場に面する建物に潜んでいた弓兵たちがいっせいに姿を現し、壇上にむけて矢を射掛けた。風を切る音がうなり、何が起こったのかわからぬまま動けない貴族達の体に突き立った。民衆の中に潜んでいた兵士達が一斉に剣を抜き、壇へと駆け寄った。
 間近に光る冷たい鋼に気づいた人々が悲鳴を上げ、その声に押されるように、全ての者が驚愕から立ち直った。
 だが、もはや貴族達に逃げる術は無かった。護衛の兵士が来るはずの方向からは、剣を構えた親衛隊の兵士達が現れ、壇上へ駆け上ると、逃げ惑う貴族達を躊躇無く斬り殺した。
 すさまじい権勢を誇っていた貴族の当主も、その奥方も、息子も娘も、小さな子供も赤子まで、兵士達は一切の迷い無く、斬り、刺し、殺していった。
 血が足の踏み場も無いほどに流れ、その上に次々と死体が折り重なった。悲鳴と怒号、子供の泣き声、耳を覆いたくなるような断末魔の叫びが広場を埋め尽くし、凄惨な鉄さびの匂いが辺りを覆った。
 皇母メリッサが兵士達に取り押さえられる。訳の分からない叫びを上げる彼女の頭から王冠がむしり取られると、鉄槌を構えた大柄な兵士が歩み寄り、無造作に王冠を叩き潰した。
 メリッサの口から糸を引くような細い悲鳴が上がる。王冠を潰される事は、皇帝家から除名されることを意味していた。
 弱々しくもがき、つぶれた王冠へと手を伸ばしかけた彼女の肩を兵士がつかみ、剣を振り下ろし、首を落とした。ごろりと、足元へと転がってきたその首を、レオンは冷たい瞳で見下ろした。
 既に壇上には兵士以外、動くものはいなかった。カルセドニアの帝位継承権を持つ人間と、レオンに対立していた貴族の全てが、物言わぬ骸と成り果ててその場に転がっていた。
 兵士達が手早く、倒れた一人一人の首を切り落としては壇上に並べていく。
 即席の断頭台となったその場所に背を向け、あらためてレオンは民衆へ向き直った。申し合わせたようにファルが吹き鳴らされ、民衆の悲鳴をかき消した。
 しん……と、凍りついたように黙り込んだ人々に向けて、レオンは口を開いた。
「……私、カルセドニア帝国皇帝レオン=カルセドニアが宣言する。今日を持って、貴族議会を解散、議員となった貴族達からその権利を剥奪する」
 それは、皇帝の独裁の始まりを宣言する言葉。
「私に刃向かう者、私に逆らう者の末路は、この通りだ」
 並べられた無数の首が、虚ろな瞳を民衆へ向けた。
「今日、この日、古き帝国は滅び、新しき帝国が生まれた。
 ――心せよ。私こそが、新しきカルセドニアの王である」
 ジャスティンの手から杖が落ち、乾いた音を立てて転がった。

 帝都中の教会の鐘が打ち鳴らされ、虚ろな音を響かせた。
 それは、死んでいった者たちへの葬送の鐘の音のようでもあり、日の入りを知らせる鐘の音のようでもあった。
 

 カルセドニア帝国の、長い長い夜が始まった。


  

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