エピローグ 変わらないもの


 雨にけぶるカルセドニア城を見上げ、ジャスティンはもう一度、この門をくぐる事はあるだろうか、と自問してみた。だが、何度考えてみても、答えは浮かんでこなかった。
 ジャスティンはそっと、マントの留め具に触れる。そこには、見慣れた竜と杖を組み合わせた紋章は無かった。
 雨の中、傘もささずに立ちつくして城を見上げている自分を、衛兵たちは触れずにいてくれた。その気遣いに感謝しながら、ジャスティンは自分が立ち去る城へ向けて、心の中で最後の別れを告げていた。
(これで、正しいんだろうか……)
 悔いが無いと言えば嘘になる。何も告げずに立ち去る自分を、レオンはどう思うだろう? 峰雪はどう思うだろう?
「魔導士殿」
 ふいに背後から声をかけられ、ジャスティンは振り返った。白髪交じりの男が自分の上に傘を掲げ、雨がさえぎられるのを感じた。
「この雨の中、どうなされた」
 大きく襟のたった外套を身につけた男だ。どこかで見た男だ……と思ったが、誰だか思いだそうとして、おっくうになってやめた。男に軽く頭を下げて傘の礼をし、ジャスティンは雨の中へ後ずさった。
 その時、男の影に一人の少女が立っているのが見えた。はっとするような、美しい赤毛の少女だった。だが、愛らしい顔立ちをしたその少女は、眉をきつく結んだまま、別の方向をにらみつけていた。
 自分の様子に、何か感じたのだろう。男は少し迷った後、傘を差し出した。
「知人にあいさつをしてきたい。少しの間、この子を見ていてもらえないだろうか」
 男は振り返る。
「アリシア。少し待っていてくれ」
 話を聞いているのかいないのか、そっぽを向いたままの少女から目を外すと、ジャスティンの方を向き直った。ジャスティンはのろのろと手を伸ばし、傘を取った。
 男が、外套の裾をひるがえして衛兵たちの詰め所へと駆けていく。詰め所の中から傘を持った兵士があわてて飛び出してくるのが見えた。
 男から目を外し、ジャスティンは再び城を見上げた。少女はぶすっとした顔のまま話しかけるそぶりを見せないし、自分も多弁な方ではない。もっとも、多弁だったとしても、今は話す気など起きなかった。
 二人、雨の中を立ち尽くす。どれぐらい時間が過ぎたか、少女がぼそりと口を開いた。
「……お前、ここで何してた」
 ジャスティンが振り返ると、少女がこちらを見上げていた。
「雨に打たれて、突っ立って。馬鹿じゃないのか」
 ジャスティンは、少女を見返した。貴族であろう男に連れられた少女だ。身なりも決して悪くない。大方、あの男の娘だろうと思っていたが、それにしては貴族の令嬢とは思えない口ぶりだった。
「なんだ、黙って。お前、口がきけないのか」
 少女のいらだった声に何も感じない自分がいるのを、ジャスティンはどこか冷めた目で見ていた。いつもの自分なら、見ず知らずの少女にこんな口をきかれれば、怒鳴りはしなくてもあまり愉快な気分にはならないだろう。
 だが、今は不思議なほど感情が湧いてこなかった。感情と言う泉が枯れ果て、ひび割れた地面がむき出しになっているのを、ジャスティンは感じた。
 いや……本当はずっと、自分の中の泉は枯れ続けていたのだ。だがレオンに会い、峰雪に会い、ともに時間を過ごすうちに、そこには水が湧き出し、しばし、自分を満たしてくれていた。そして今、再び枯れてしまったのだ。
 その時ジャスティンは、自分を見上げるこの少女の中にも、同じような乾いた泉がある事に気がついた。それはきっと、昔のジャスティンなら見えなかっただろう……だが、レオンや峰雪と過ごし、一度泉が満たされたことで、ジャスティンにはそれが見えるようになっていた。
「……ふ、ふふっ」
 我知らず、笑みがこぼれた。少女が眉をきつく立てる。
「なんだ。何がおかしい」
「俺と同じだと、思ってさ」
 ジャスティンの答えに、少女は眉をひそめた。ジャスティンは、少女に微笑みかけた。
「お前、友達は?」
 答えに、少女は一瞬詰まり、やがてぷいっと横を向いて言った。
「いる……でも、もう会えない」
 あぁ、とジャスティンは思った。本当に、俺と同じだ。
「そうか……会いたいよな」
 ジャスティンの言葉に、少女がぱっと顔を戻した。ジャスティンは少女から目をはなし、城を見上げ――城のどこかにいる二人の事を思った。
「あんなにいつも一緒にいたのに……もう会えないとか、信じらんないよな……」
 ジャスティンの言葉に少女の表情が和んだ。少女が、少し考え、言った。
「……お前も会いたいのか?」
 少女の言葉に、ジャスティンはうなずいた。
「そうか……私も会いたい」
 少女が、たどたどしく言葉を紡ぐ。
「彼らは私に……かけがえのない物をくれた。私はそれに感謝してる。……ただ一つ残念なのは、もう会えないことだ」
 少女の言葉が思いがけない強さで胸を打ち、ジャスティンは少女へ向き直った。少女は赤くなり、ぷいっと横を向いた。
「な、なんだ、なにか文句あるか」
「……いや」
 ジャスティンは、自然と浮かんだ言葉を、そのままに言った。
「俺も、そう思うよ」
 言葉に、少女が振り向いた。はにかんだような笑みが、ジャスティンの目に広がった。
(あぁ……そうだよな)
 ジャスティンは、改めて城へと振り返った。あの少年だったころ、庭でレオンと出会った時の事がまざまざと思い出される。あれが、自分の人生の分岐点だったのだ。あそこでレオンに会わなければ、自分はきっと違う人生を歩んでいただろう。
 もしかしたら、宮廷魔導団の証を今も身に付けていたかもしれない。戦場で、華々しい武勲をたてていたかもしれない。そして、もしかしたら……ジャスティンは、先日父から届いた手紙を思い出す。もしかしたら、自分はまだ『ジャスティン=ラグナー』でいられたかもしれない。
 手紙には、ジャスティンを勘当する旨が簡潔に書かれていた。当然の事だと、ジャスティンは思う。こんな風に城を立ち去る以上、覚悟をしていたことだった。
 だがそれでも……つらくないと言えば、嘘になるのだ。
 ジャスティンは思う。違う人生がよかったのか、と。人生をやり直して、もう一度選び直せたら、どうなるのだろう、と。
「お前も、友達から大切な物をもらったのか?」
 少女の声に、のろのろとうなずく。少女が、弾んだ声で言った。
「そうか。私と一緒だな」
 そうだな、ジャスティンは思う。
 俺は大切な物をもらった。それは違う人生を歩んでいたら、得る事が出来なかったものだろう。
 ジャスティンは、その時、はっきりと思った。

 自分はもう一度人生をやり直しても、きっと同じ道を歩むだろう。

「……どうして、泣いているのだ?」
 少女が、すぐそばに立っていた。言葉に、ジャスティンは手を伸ばし、頬に触れた。頭の上に傘はあるのに、頬は濡れていた。
 ジャスティンの手から、傘が滑り落ちた。ジャスティンは崩れ落ち、雨の当たる地面に突っ伏すと、声をあげて泣いた。
 少女の手がおずおずと伸ばされ、そっと、その背中をなでた。

 *

 まぶしさに、ジャスティンは目を開けた。どこかから、パンの焼ける良いにおいが漂ってくる。卵か何かを焼いているのだろう、ジュウジュウという食欲をそそる音が響き、腹がきゅうっと鳴った。身じろぎすると、肩から毛布が落ちた。
「む、起きたか」
 のろのろと眠っていたソファから身を起こすと、一人の女性が歩み寄ってくるところだった。不思議な、深い紫色をした長い髪を頭の片側で結ってポニーテールにしている。切れ長の瞳が楽しそうに細められていた。
「……おはよう、ルシア」
 ジャスティンが身を起こすと、ルシアは傍らにあった机にぽんぽんとミルクやパンを並べていく。
「……てゆーか、お前、朝からなんて恰好してるんだ」
「ん?」
 振り向いたルシアは、チュニック一枚を着ているだけだ。短い裾からちらちらと健康的な太ももがのぞく。
「……つーか、それ、俺の服……」
 げっそりとしたジャスティンの言葉に、ルシアはくくっと喉の奥で笑った。
「よいではないか。私とお前の仲だろう」
「……言っとくが、俺とお前はそういう仲じゃないからな」
 分かっている、分かっているとルシアはひらひら手を振ると、ニマリと笑って付け足した。
「だが、お前が泊めてくれと言ってきたのだぞ。それも分かっておるな?」
「しょうがないだろ、遅くに着いたせいで宿が無かったんだから。……アランとマリアはレスティナに行っちまったし、レイアンとミリアはエイビスに出張してるし、リディアとライオスは……」
 バルディアに休戦協定交渉に行ってるし……と続けようとするジャスティンを制して、ルシアは言った。
「分かっておる。からかっただけだ」
 振り向き、卵をフライパンから皿へと移しながら、ルシアは言う。
「だが、おぬしも失礼極まりないぞ。若い女と一つ屋根の下に泊まりながら、夜這いの一つぐらいしてみせないとは……おぬし、不能か?」
「フツー逆だろ。ってか、言いすぎだろ!」
「バカ者。これで、私がヘンタイにすら言い寄られぬ女だと噂になったらどうしてくれる」
「ヘンタイじゃねぇ!」
 がっくりと肩を落としたジャスティンの前に、ルシアが皿を置いた。
「で、どんな夢を見たのだ?」
「は?」
「何か見たのだろ」
 言われ、ジャスティンは戸惑った。まさかルシアには、他人の夢が見えるのだろうか。その戸惑いを感じたのか、ルシアはくいっと顎をしゃくると、
「食事の前に顔を洗って来い」
 とだけ言った。
 のろのろと立ち上がり洗面台へ向かう。鏡を見ると、夢のなかよりも大人びた自分の顔が映り……そして、頬に涙の跡があった。
 じゃぶじゃぶと顔を洗うと、ルシアの手がひらりと伸びてきて、その手に持った布で顔を覆った。洗剤のよい香りが鼻腔に広がり、ジャスティンはつい、されるがままに顔をふかれる格好になった。

「……昔の夢さ」
 ルシアの作ってくれた食事をほおばりながら、ジャスティンはぽつりぽつりと、話していく。ルシアもまた、時折うなずきながら、聞いていた。
「レオンは……帰ってきてくれた。今でも、信じられないけどな。こんな風に、また友人に戻れる日が来るなんて、思ってもなかった……」
 ここに戻るまで、5年以上の歳月が過ぎてしまった。革命の旅に身を投じ、苦難の果てに旅を終えた時、ジャスティンはやっと、親友を救う事が出来たのだった。
「だが、峰雪は……」
 峰雪は、凄絶を極めた革命の戦いの中で命を落とした者の一人だった。
 レオンが落ち込んでいるのは分かっていた。レオンと峰雪が恋仲になっていたのは、ジャスティンもとうの昔に気づいていたことだったからだ。それだけに、友人の心の内を思うとジャスティンもまた、身を引き裂かれそうな思いがする。
「生き返らせておいたぞ」
 だから最初、ルシアがこともなげにそう言った時、何を言っているのか分からなかった。
「生き返らせておいたぞ」
 もう一度ルシアが言い、ジャスティンにようやく、その言葉がしみ込んだ。
 ジャスティンは、我知らず立ち上がっていた。
「リディアから抜き取った力が残っておったからの。もう一人ぐらいは、術を施せた。……今頃は、レオンと一緒におるだろう」
「レオンは? レオンはどこにいたっけ?」
「キルナスだ。カルセドニア城の跡地の近くに臨時の指揮所か何かを置いて働いておったはずだぞ」
 ジャスティンは、ソファの横に立てかけてあった杖をつかむと、同じくソファにかけてあったローブを手に取った。
「なんじゃ、どこへ行く」
「キルナス」
「今からか?」
「馬でも何でも借りて、大急ぎで行くんだ」
 待て待て、とルシアがひるがえったジャスティンのローブの端をつかんだ。
「あせらんでも、昼にアリシアがアメイジング・グレイスで来ると言っておったぞ。便乗させてもらった方が早い」
 言われ、ジャスティンは立ち止った。気持ちは急いていたが、ルシアの言う通りだと思ったのだ。
 振り向くと、ルシアが笑っていた。
「そもそも、お前は私の食事を食べ終わっておらんだろう。罰が当たるぞ」
 笑うルシアに、ジャスティンは口を開きかけた。言葉を探し、しばらく口を開け閉めしていたが、たくさんの感情が渦巻く中、一番素直に出てきた言葉を、そのまま口にした。
「ありがとう」
 一瞬、ルシアはきょとんとし、やがて満面の笑みを浮かべた。
「構わん。礼なら、リディアに言うておけ」
 腰に手を当て、闇と破壊、死と孤独をつかさどる女神は、優しく微笑んだ。

 *

「すみません、ジャスティン殿。陛下は……おっと、もう陛下って呼んじゃいけないんでしたね。レオン殿なら、ついさっき出かけたばかりなんですよ」
 アリシアにキルナスまで送ってもらい、臨時の指揮所へと駆け込んだジャスティンに、セバスは申し訳なさそうに言った。あの革命の戦いの折、今は亡き大隊長オーエンに従って城内にいた彼は、その革命を生き延びた後も新しい政権の下で忙しく働いている。そしてもうすぐ、元は侯爵だった女性を妻に迎えるのだという。
「ずいぶん、ニコニコと嬉しそうでしたよ。大切な人が帰ってくるとか……なんか、そんな事を言ってましたね」
 言葉に、ジャスティンは胸がドキドキするのを抑えられなかった。おそらく、ルシアがレオンにあらかじめ知らせていたのだろう。
「どこに行ったか、分からないか?」
「さぁ……あ、ただ、思い出の場所へ、と……」
 それを聞いた瞬間、ジャスティンは踵を返すと指揮所から駈け出していた。

 息を切らして、キルナスの町中をかけていく。指揮所のある辺りは復興が進んでいたが、城の周囲はまだあまり復興が進んでいない。路面のひび割れや瓦礫を避けて、ジャスティンは走る。やがて、あの雨の日に振り仰いだカルセドニア城の城門へとたどり着いた。
 ジャスティンは息を切らし、城門を一気に駆け抜けた。
 足を止める事無く、城の奥へ。あの、レオンと出会った庭園へ向けて、ジャスティンはひた走った。やがて、がれきの向こうから、青年の笑い声が聞こえてきた。それに混じる、女性の笑い声も。
 ジャスティンは、あの庭へと足を踏み入れた。
 レオンが、真っ先に気づき、その顔に満面の笑みを浮かべた。つられて振り向いた峰雪も、ジャスティンに気付くと笑いを浮かべ、一目散に駆けてきた。
 峰雪が、両手を広げ、ジャスティンに抱きついた。峰雪の温かい体を抱きしめ、確かに彼女が生きているのだと、ジャスティンは実感した。
「……お帰り」
 言葉に、峰雪が胸に顔をうずめたままうなずいた。
「うん……ただいま」
 そっと体を離すと、峰雪は照れ臭そうに笑い、レオンへと振り向いた。レオンがほほ笑みながら、歩み寄ってくる。
「お帰り、レオン」
「うん、ただいま、ジャスティン。……お帰り、ジャスティン」
 ジャスティンは、屈託なく笑った。
「あぁ。ただいま、レオン……!」

「庭はめちゃくちゃだよ。お気に入りだった椅子も、どっか行っちゃってさ」
「派手に吹き飛んだからなぁ」
 3人でかつての庭を見渡す。木々は倒れ、瓦礫が転がり、あののどかだった庭の景色は、もうどこにもない。あたりを見回していたジャスティンが、ふと、レオンの指に目を留めた。
「あぁ……これ」
 レオンが笑いながら指輪を見せる。
「実は婚約したんだ。もうすぐ、結婚式も挙げようって……」
「峰雪が、その……生き返ったのって、そんなに前なのか?」
「いや。僕もついこの間、ルシアから聞いたのさ。今日、思い出の場所に行け、って」
「じゃあ、いつの間に?」
 ジャスティンが首を傾げると、峰雪が赤くなりながら言った。
「再会した途端よ。……もう、びっくりしちゃったわ」
 そういう峰雪の顔は、もうすっかりはにかむ若妻の顔になっていた。
 ジャスティンは、ふと、泣きたくなるような切ない気持ちに、胸を締め付けられた。
「……変わっていくんだな。この場所も、俺たちも」
 その言葉に、二人が振り返る。少しだけ、心の中で言葉を探し、レオンは口を開いた。
「そうだね。……でも、変わらないものもあるよ」
 峰雪も楽しそうに微笑んだ。
「えぇ。世界がどんなに変わっても……変わらないものもあるわ」
 その微笑みを見ているうちに、ジャスティンの顔にも笑顔がこぼれた。
「……そうだな」
 笑い、ジャスティンは瓦礫の一角に目をとめ、笑みを深くした。つられてそちらを見たレオンと峰雪もまた、朝日を浴びたような、明るい笑みを浮かべた。
 瓦礫の隙間から、一本の植物が伸びていた。つる性のその植物は瓦礫の上を伸びながら葉を茂らせ、その先に、淡い紫色をした、広げた手のひらぐらいの大輪の花を見事に咲き誇らせていた。
 レオンが、口を開く。
「ジャスティン。……その花の名前、なんて言うか知ってるかい?」
 ジャスティンは、万感の思いを込めて、答えた。

「クレマチス」

 答えに、レオンが目を細めた。

 やがて二人は、どちらからともなく手を伸ばし、握手を交わした。

 彼らは、歩んでいく。
 変わりゆく世界の中、変わらないものを抱いて。



――Fin


  

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